仕事を始めてからは、長期休暇はとれないので、必然的に国内も旅行するようになった。
祖谷(いや)村は、「四国のチベット」などと呼ばれているらしいけど、地元ではそんな呼び名は一切聞かない。それでも、秘境然とした風景は今でもちゃんと残っている。昔、外国人バックパッカーだったアッレクスカーが当地に感動して、古民家を買い取って「ちいおり」というプロジェクトを進めているという。
室戸岬のすぐ近くにある御蔵洞もしくは御厨人窟(みくろど)。
空海晩年の「御遺告」には、「土佐の室生門の崎に寂留す。心に観ずるに、明星口に入り、虚空蔵光明照し来りて、菩薩の威を顕し、仏法の無二を現ず。」とあって、ここでやはり何らかの宗教体験があったのだろう。一体、「のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそわか」と百万遍も唱えると、脳あるいは心理的にどのような事態が起きるのだろう?
ここは、昔から「西の高野」と呼ばれているらしい。
空海は18歳で大学で学び始め、20歳過ぎに大学を去り、山林での修行に入ったといわれている。「僕的に偉大なるドロップアウト」の一つに数えられる、勇断だと思う。しかし、20代後半(延暦16年から23年までの7年間)にの空海の消息には不明な部分が多くて、それが逆に僕らの空想をふくらませて面白いところだ。「三教指帰」の序文には、「阿国大滝嶽に躋攀し、土州室戸崎に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す。」という有名な一文があって、これをもって空海が阿波の太龍嶽の後に、四国の東の海辺を巡って、土佐の室戸岬付近の御厨人窟で修行をしていたのだということが分かる。
僕らは、寺から離れたところにある、まさに空海が修行を行っていたという巌棚まで行ってみた。平成5年に建立されたという「求聞持法御修行大師像」が、東から上る明星の方角を向いている。おそらく、空海が修行をしていたのは、もう少し前にある人があぐらをかいて座れるくらいの小さな岩場だろう。
ここから眺める風景は、山と空と海だ。
後で知ったのだが、実は立ち入り禁止だった。
朝起きると宿坊の回廊(と言えばいいのか)にも雪がつもっていた。外界との仕切りは障子一枚。案の定、風邪をひいた。結局、翌朝のお務めには参加できず。
精進料理には高野名物の胡麻豆腐なども出てきて、意外に豪勢。
昔は人口が6000人を超えたこともあったが、挙家離村のため既に1000人を割っているという。今でも人口減少と高齢化が急激に進んでいる。村の入り口には「お帰りなさい」という垂れ幕があって、離村した人々を静かに迎え入れるのだが、何とはなく寂しい。何も無い村だけど、こういうところが田舎でよかった。
この辺りに昔の山岳武士たちの居城であった森遠城があった。安徳天皇も一時はここにかくまわれていたという。村の主要部がみわたせる眺望の良い場所にあり、僕が訪れたときは周囲にガス状の霧がかかっていたため、あたかも雲の上にあるような雰囲気だった。今では訪れる人も少ないが、きれいに整えられている。僕は、ここの静かで既に忘れ去られた場所の雰囲気が好きだ。
2007年1月2日、数年ぶりに訪れた木屋平村。木屋平村は四国山地の奥深く、剣山の麓にああり、平家の落人の伝説が残る村である。昔は尾根づたいにハイウェーが発達していたので、今でも民家は山の上の方にある。 折しも季節外れの雨が降ったせいで、山には濃い霧がかかっていた。..
硫黄の匂いで充満した恐山の境内には、4つの温泉が湧いていて、泉質もなかなかのものだ。宿坊に泊まれば、誰もいなくなった夜中に湯につかることができるのでうれしい。でも、熱くて、大量の水を入れないととてもじゃないけど入れない。4つのうち、1つは混浴。
恐山の周辺に近づくと、突然緑が濃くなり、辺りはうっすらと霧に包まれる。山門を超え、さらに進むと、宇曹利湖が視界に入る。この辺りで、僕らは何となく違う世界に入ったかのような錯覚を覚えた。さらに進むと、恐山菩提寺にたどり着く。
霊場恐山は、最澄の弟子であり、唐に留学した円仁によって、862年に開かれた。宇曹利湖と8つの尾根に囲まれていて、高野山のように、一種の立体曼荼羅のような感じだ。胎蔵曼荼羅地蔵院の本尊である地蔵菩薩がまつられている。
僕らが宿泊したお寺の住職さんは、恐山は地理的に結界を張るのに最適な土地なのだと語っていた。