collective dynamics of ethnic and cultural conflicts
(一部修正)集団意思決定というものを考えたとき、個人の意思決定やattitudeそれ自体は、社会的な系のふるまいに対して起因的な効果を与えるものではない場合が存在する。僕たちは、それぞれの信念にしたがってふるまい、社会や集団というものをある程度意識しながら行動を選択している。ときには、集団レベルの動向にあがなう方向にふるまうこともあるだろう。しかし、集団レベルでみれば、個々の意思決定によらないかのようなヒト集団の性とも言うべき、共同現象が生まれてくる。流行現象、選挙、宗教などが例として挙げられるだろう。collective unconsciousに関するykeno1さんのコメントに触発されつつ、動乱/紛争関連の論文をもう一つ。
ざっと読んだだけだが、これも非常に興味深い内容だ。例えば、資源の取り合い、経済的要因、少数エリートによる誘導、少数民族に対する圧制など、紛争の発生に寄与する因子は数多く存在する。しかし、これまでに同定された諸要因は国家的な要因であることが多く、紛争が発生した地域における地勢学的なダイナミクスをつぶさに検討した研究は少なかった。
ややこしいので結論から書いてしまおう。著者らによれば、異民族間の紛争が生じやすくなるのは、「複数の異民族が混在し、それらが地理的に中途半端な区分しかもたないとき」であるという。このとき、紛争の発生頻度と民族の混合度にはcritical point(臨界点)が存在する。すなわち、複数の民族が地理的にみて明確に区分されている(isolated:隔絶されている)場合や、同一地域内に完全に混ざり合っている(mixed)場合には、紛争が発生する頻度はむしろ低下するむ。一方、未だ明確な境界をもたないまでも、同一民族が徐々に集合し、異なる民族が互いに分離し始めたときに紛争が発生する頻度が最も高まるのだという。それは、あたかも民族の混合度に、isolation(安定アトラクター)とmixing(不安定アトラクター)という、アトラクターとも言うべき両極の状態が存在しており、そこから外れたときに局所の不安定性が一挙に高まるようだ。別の表現をするならば(著者も書いている通り)、「地域内における民族の混合度」が紛争の決定要因の一つであって、それは紛争ダイナミクスの"order parameter"(少数で系全体のふるまいを支配するパラメーター)としてふるまっているのだと言えるだろう。こうした現象は、chemicalな相転移とも類似しており、様々なシステムに一般化できるのだという。
このような結論は、セルオートマータのような幾何学的モデルによって導かれている。まず、モデルでは、インドとユーゴスラビアにおける実際の民族分布地図が使用されている。実際の地理的条件を2Dで再現し、2つの民族が混在する初期条件を設定した上で、「各ユニットは、自身と同じ民族と合流しようと移動する」という単純なルールを設ける。こうした移動を何度も重ねてシミュレートしていくと、いくつかの地域において徐々に同一民族が集積し、他とは区別される「パッチ」が出現し始める。それらは、徐々に安定した形態を取り始めるのだが、一定のサイズに達したパッチの中には周囲を異民族に囲まれたもの(red patch)が出現し始める。そして、この2Dモデルと実際の紛争地図を重ね合わせてみると、red patchと実際に紛争が起きた地域がかなりの正確さで一致していたというのだ。実際の図をみてみると、モデルと現実は出来すぎたように重なり合っている。そして、ここでも、パッチのサイズなどにベキ乗則が現れている。さらに、インドとユーゴスラビアの例でみる限り、異民族のパッチ10kmが以内に混在していればmixingとして十分であり、100kmの以上離れていればisolationとして十分であったという。
例えば、僕は北インドを2回程旅したことがあるが、紛争や暴力事件が頻発し旅行者にとって旅がしにくい地域は、多くの場合、異民族(民族的、文化的、宗教的に)が混在し、政治的に不安定な箇所であった。イエメンにも同じような地域があった(現在もなお、部族制度が存続している)。バルカン半島を旅したときには、サラエボ市街の銃弾の跡は生々しかったが、街はいたって静かで、国際的、政治的な線引きのものとで、ある程度のisolationが達成されていると感じた。しかし、それでもいつ紛争が再び勃発するか分からない状況ではあるのかもしれない。ただし、モデルにはそぐわない現実も存在する。一定のisolationが達成されているにも関わらず紛争が絶えない地域として、キプロスなどが挙げられよう。キプロスは、ギリシャ系とトルコ系で島がほぼ半分ずつ隔離されているが、幾度となくconflictが起きている。推測ではあるが、短期間で人工的に作られた境界と、長い時間をかけて自然発生的に生じた境界とでは、集団のダイナミクスに与える影響が決定的に異なるのかもしれない。カンボジア、朝鮮半島、イスラエル/パレスチナ、イラク、アフガニスタン、アフリカなど、こうした例外は探せば探すだけ、みつかるだろう。
いずれにしても、紛争を美化する気はない。それでも、この研究が導いた結論に対して少々つっこんだ見方をしてみよう。一つは、「紛争が民族間の分離を促進する」という意味で、かつて(歴史上、まとまった社会的ルールが出現するまで)の人の環境においてはadaptiveな側面をもっていたのかもしれないということだ。それは、ユングが指摘したarchetypeとして種に保存されているinvisibleな傾向のようなものなのかもしれない。もう一つは、紛争や戦争を個人の主観的な意思決定の問題として片付けるだけでは、おそらく不十分であるということだ。しかし、僕らは悲観的にならないでもよいのかもしれない。著者らも述べていることだが、このモデルは紛争を減少させる際の一つのヒントとなるかもしれない。すなわち、十分なmixingか、十分なisolationが達成されれば、紛争の頻度が減少する可能性があるということだ。現実に目指すべきは、前者であろう。そして、それは個人の意思決定に働きかけるのではなく、強大な力と社会的意思によって介入しなければ実現しないことであろう。
それでは、革命やクーデターは、どのように捉えることができるのだろうか?両者とも、少数の強大な影響力をもった個体が、他者を巻き込みながら大規模な事象をmotivateし、駆動しているようにみえる。しかし、このような論文を読むと、たとえカリスマ性をもった革命家でさえ、いくつかの状況要因によって準備され、promoteされ、あるいは「作られている」のかもしれない。押井守の作品を思い出しつつ、そんなことも考えてみた。
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