大森荘蔵「時間と存在」(青土社)
僕は、本書の1、2章をとばして、迷わず3章から読み始めた。ここでは現代科学に対する冒涜とも言えるような、「無脳論」が展開される。
彼は言う。今日、僕たちの意識と行動は全て脳の状態によって決定されるという「脳産教理」を信じて疑わない。「僕たちの意識、記憶、感情、知覚・・・このような心の動きの全ては脳の働きによって生み出される」という信念は脳の時代のセントラルドグマであり、これに異を唱えるものは異端として徹底的に排斥されるのがおちだろう。
大森荘蔵は、脳科学における諸発見を完全否定しようとするのではなく、少なくとも論理的には脳産教理におけるセントラルドグマを否定する可能性が残されているのだと、控えめな口調で語る。彼の論旨は明快だった。要約すると、脳と世界における因果系列の中で、「世界→脳」の因果関係は確かであっても、「脳→世界」の因果関係は障害因果(例えば脳の視覚野が損傷されると、視野に欠損を生じるという因果的事実)しか不十分な根拠しか提示することができず、従って脳産教理は因果系列の必須条件を欠き、その成立を疑わざるを得ないというものだ。世界の体験が必ずしも脳に帰属されないことから、彼は最終的に脳が無くても体験が成立するといいう無脳論の可能性に到達する。ここで彼が挙げる解決策が、おなじみの「重ね描き」である。
正直に言って僕にはピンとこなかった。もっと難解か、あるいは曖昧で神秘性を帯びた論理が展開されるものかと想像していたから、拍子抜けしたからかもしれない。あるいは、僕たちは余りに無反省的に世界を脳に帰属させていたのだろうか?あるいは「野暮なことはするな」という、いかにも彼が呟きそうなぼやきなのだろうか?
一つ疑問が生じる。
因果系列の必須条件とは「因果決定論」(全ての事象は原因をもつ)と「因果律」(同一の原因は同一の結果を伴う)なのだろうけど、このような因果関係は脳産教理だけではなく、量子力学における不確定性という概念によって、既に科学の内側で展開され始めている理論ではないのだろうか?そして、脳科学の中にはそのような流れを取り込もうとしている向きもある。そうなると、彼が科学に対して鳴らした警鐘は、まさしく科学の中で溶けて消えてしまうかもしれない。
でも、どこかにわだかまりが残る。不吉な予感が。
(僕たち精神科医も、Schizophreniaを含むあらゆる精神疾患を因果的に脳に帰属させようとしている。そして未だ完全ではないにせよ、この試みはあるところまでは成功を収めている。かつては治療的ニヒリズムから脳を無視した様々な治療が行われたけれども、そのほとんどはSchizophreniaの患者さんには非力であった。極論すれば、僕たちは患者さんを治せなければ無意味な存在である。その後、再び揺り戻しが働いて、精神医学の再医学化の流れの中でおのずと治療標的が定まっていく。僕たち精神科医が患者さんの中で何が起こっているのか考えようとしたときに、脳を度外視することは不可能であった。)
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