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2005年12月 4日 (日)

近況

最近はめまぐるしい動きがあり、いくつかの非常に示唆に富む道標を与えられた。僕が勉強すべき領域も一挙に拡大した。というより、当然ながら僕はまだまだ何も知らなかったのだ。今のところ僕が同時進行で調べてみようと思うのは、

1.意識の研究、特に主観的体験と脳内メカニズムについて
2.神経活動の時空間的パターンの解析、特に同期現象について
3.Schizophreniaにおける主観的な体験の異常との照合、機能画像や病理学の成果も踏まえて
4.関連する諸領域の基礎知識(認知科学、生理学、情報理論、システム論など)
5.心理学、哲学、社会学における動向
6.所属する研究会(神経心理学)の勉強

こうやって挙げてみると、どれも大切なことだけども、一方で途方もないようなことに思えて足がすくんでしまうが、やらなきゃならない。

そこで、昨日は久しぶりに大学の図書館に行って、論文漁りをしてきた。せっせと印刷していると、鞄いっぱいになったので、その辺でやめておいた。進化心理学的な立場から提出された統合失調症の論文もいくつか見つかったし、神経活動の同期性が統合失調症の治療につながるような論文(WhittingtonとTraubによるNeuronal fast oscilaltionsをpsychotropic drugのtargetとするという論文)などもみつかった。Mirror Neuron Systemに関するReviewや、もちろんNeural Synchronyに関する論文もたくさん仕入れた。

深夜、僕がひそかに崇拝し感謝する西荻窪の古書店、すこぶる社(何人かの高名な精神科医も訪れるらしい)を訪ねるが、博覧強記の店長は不在。

また、いくつかの本も購入した。

清水博 「生命を捉え直すー生きている状態とは何か」(中公新書)

ベルタランフィ「一般システム理論ーその基礎・応用・発展」(みすず書房)

ニクラス・ルーマン「自己言及性について」(国文社)

Roger D.Traub et al"Fast Oscillations in Cortical Circuit(Computational Neuroscience)"(Bradford Book 1999)

Anthony Stevens"Evolutionary Psychiatry:A New Beginning"(Routledge 2000)

G.M.Edelman"Neural Darwinism:The Theory of Neuronal Group Selection"(Basic Books 1999)


ちなみにThomas Metzingerの"Being No One"は予想通り苦戦。無数の概念装置を創出し駆使する分析哲学の人が考えることになかなかついていけない。ところどころ直感的に理解できるフレーズが頭に残る。その他無数のフレーズは頭の中で拡散して、消えてしまう。一体、あと何ヶ月かかるのだろう?

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コメント

(書き込む場所を間違えてしまったので、ここに貼り付けなおしました。ついでに、ちょっと表現も改めました)

 清水博の著書(「生命と場所」など)、吉田民人の情報の定義(インターネットで検索できます)、、それに河合隼雄の本(たとえば「ユング心理学と仏教」)は押さえておいたほうがいいと感じます。
  欧米系のひとたちが言語の壁のせいでこの3人の著書に親しめないのは残念じゃないですか。東西文化の接点にいて、これらの本も読めるわれわれは西欧人よりか、特別恵まれた環境にいるのだとおもうのですが、でも、そのことに気付いているひとは稀有。この3人の著書を読んでその全ての重要性をたちどころに悟れる欧米文化圏の人物がいたとしたら、唯一、それこそ F.Varela だっただろう、と想像します。あと、もう一人いるとすれば、例のA.Stevensでしょうか。ちなみに、このひとはわが国ではほとんど無名ですが、第3回 フェイ・レクチャーの講師です。その第6回の講師が河合隼雄先生で、そのときの講義録が上述の著書。

投稿 R.T | 2005年12月 4日 (日) 18時47分

清水博、吉田民人、河合隼雄ともに未読でした。これから時間をかけてゆっくりと読んでみたいと思います。ちなみに、フェイ・レクチャーというのも初めて知りました。河合隼雄先生はエラノス会議にも出席していましたね。
華厳哲学にも接したことが無かったので、インターネットでいくつかのレヴューを読んでみたのですが、華厳哲学における存在論的関係性、特に「縁起」という概念は非常に興味深いです。「この世界の実相は個別具体的な事が、相互に関係しあって成立しており、無限に縁起しあっている。」(Wokipediaより引用)という思想は、まさしくVarelaが語っていたことだし、彼らが神経システムに見いだしていたものでした。現にF.Varelaも"Embodiment Mind"の中で、「共依存的な生起」として「縁起」に触れ、「空性」の理論を用いていますね。というか、今ちゃんとこの本を読んでみたらVarelaが中心的に引用している龍樹ナーガルジュナも華厳宗の7祖の一人なんですね。「できるだけ海外の文献を原著で」などと力んで決めてかかっていましたが、僕らの住む東洋にこんな思想があったなんて。
これまで後回しにしていたのですが、ようやく僕の中で河合隼雄先生そしてユングへの道がつながったような気がします。

投稿 わるねこ | 2005年12月 4日 (日) 20時07分

 貴君はわかりが早いですね。感心します。 そうそう、東洋と西洋を通底する思考体系を求めてほしいし、それなら、井筒俊彦先生に道案内を頼むのがいいかも。そうこうしているうちに、いずれちかじか、わたくしは貴君に追い越され、貴君の足跡をたどりながら、はるかに遅れてとぼとぼ、ついていくことになるでしょう。
 それと、研究分野選びですが、貴君が感じていたとおり、・・・貴君のお手本になりうるのはF.Varela しかいないようですね。わが国でそういう特異性のある研究者は例の清水博先生だったのです。理化学研究所にその流れのヒトがいるようです。
 分野は・・・Systems Neurophysiology といわれる分野でしょうね。空間的には脳機能の全体をマクロに見ること、しかも、時間的にはミリセカンドから数秒のオーダーで見る研究をお勧めしたいなあ。そういう仕事は、ある種、「理論的洞察力」「思想性」がないと出来ないんで。日本でこれが出来る人は少ないようですが、貴君にぴったりですよ。
 でも、こういう、「いわゆる研究」は余技程度で十分かも。「いわゆる研究」とか「インパクトファクター」とかよりはるかに大切なこと、が、ありますから。

投稿 R.T | 2005年12月 5日 (月) 11時00分

恐れ多いお言葉を頂き、なんと言えばよいのか‥。System Neurophysiologyという分野があるんですね。哲学でも認知科学でも生理学でも分子生物学でも心理学でも計算論でもない未開の領域。あるいは知の統合としての場。そして、この領域を現に追求している人が先生を含めてわずかながらもこの国にいるということ。僕が求めていたのは、そういったはるか先鋭とのコンタクトでした。自分に先生の言うような理論的洞察力や思想性があるのか分からないのですが、そこに惹かれている自分がいるのは確かです。とにかく、先鋭の足跡をしっかりと追いながらも自分で考え抜くしかないということでしょうか。しかもネガティビティズムやニヒリズムに陥らずに。これまで僕の中に強力な痕跡を残したEdelmanにせよ、Varelaにせよ、Benjamin Libetにせよ、既存の分野にとらわれない論考を自由に発展させていますね。
華厳哲学について少し調べているうちに井筒俊彦先生の名前は重要性を帯びて自然に浮かんできました。

投稿 わるねこ | 2005年12月 6日 (火) 00時02分

 自分の理解はこうです。Edelman はクオリア問題(Explanatory Gap問題としての)を解こうとはしなかった、ともいえる。Explnatory Gapを埋めようなどということは棚上げしたままでも、「意識」問題を解くことは出来るし、それが正しいアプローチだとEdelman は考えた。そして、そういうアプローチでその「意識」問題を解いた答えとして産まれたのがDynamic Core仮説である。こうして得られたこの結論は不思議なことに、きわめて仏陀の答えに近似してみえる。Edelmanの答えも、「『わたし』とか『自己』などというものは、もともと最初から無かったのである。」といいたげに読めるから。
 でも、じゃあ、この「わたし」という存在の、この「存在感」ってどこから来るの? この問いにはEdelmanは挑もうとしない。茂木さんとか、Chalmers とかは、Edelmanのこの姿勢に飽き足らないだろう。
 でも、この問いに挑戦しないEdelmanの態度のほうが正しいのかもしれない。「時間」、「空間」「エネルギー」はどこから来るのか?という疑問を解こうという試みが無謀であると同じく、クオリアという存在の起源を問うことも、「人間の分際をわきまえない不遜な態度である」というのが正しい態度、なのかもしれないし、そうでないかもしれない。
 と考えたのですが、どっか、間違ってるでしょうかねえ?

投稿 R.T | 2005年12月 6日 (火) 20時35分

クオリアや自己は、宇宙の起源と同じように解が存在するかどうかも不明な問題なのだと思います。ある哲学者は、「不当設定問題」と言っていました。しかし、僕にとっては目をそむけることができない問題でもあります。Varelaは「認識についての認識は強制される」と言っていました。
当然のことながら、少なくとも僕はまだ自分のアプローチが決められない状況で、意識やこころの問題に取り組んでいる人であれば、誰の考えであれ一度は真面目に触れてみようと考えています。また、ある一つの説明言語では必ず漏れてしまうことが出てくるのではないか、という不安もありあます。この意味で、以前書き込んだ大森荘蔵の無脳論も、正しいかどうかは別として一度は真剣に取り扱ってみようと思い、紹介しました。今の僕の中では「何を考えるか」ということも重要ですが、「どこからどのように考えてゆくか」という軌跡も同じくらい重要です。しかし、これもすぐに答えが出る問題ではないので、とにかくあちこち動きながら考えようというのがモットーです。ただし、最後まで自分は精神科医だと思うので、やはり主観的体験とニューロンの活動パターンをどこまで近づけられるかといいうテーマは最重要です。

僕もExplanetory Gapやクオリアというものはそもそも解くべき(解ける)問題ではないかもしれない、と考えることがあります。少なくとも、これを最初の問題設定とすべきではないと。僕は以前からかなり安易に使用していますが、正直に言ってこれを問題と読んでいいのかどうか。Explanetory Gapやクオリアの問題は、もしかしたら僕らが用いる説明言語や視点に内在するのではないか?生理学者と物理学者と哲学者が重要だと認識する問題は、それぞれ全く異なるものかもしれない。言い換えれば、ある視点の問題は別の視点で拡散するかもしれない。先生の言うように、そもそもEdelmanの仮説でにおいて、Explanetory gapは(現時点で)彼が解くべき問題とはみなされていなかったのだと思います。しかし、僕がEdelmanの仮説に最も共感を覚えたのは、彼が曖昧な用語の使用を避けつつ、平易な表現かつ明晰な思考で、非常に本質的で抽象的なレベルの説明に到達していたからでした。そして、彼の思考の描いた見事な軌跡が、その出発点(免疫学)からその後の道のり(神経回路の発達理論〜ダイナミックコア仮説)まで、ある意味で必然的なものだったと感じています。もちろん彼の思考能力が剃刀のように細い道を歩むことを可能にしたのですが、出発点をどこに定めるかという問題設定以前の問題が今の僕の中での課題の一つです。歩き始めたら、自分の頭で行けるところまではいけるだろうと楽観的に考えています。だからというわけではないのですが、ここでは今のところ勝手なことばかり書いており、後日全く矛盾することも書いてしまいます。

僕たちが重要だと思っていたことが一つ視点を変えるだけでその存在があやふやなものになってしまうかもしれない。僕らが日々語る自己やクオリアのような質感もそれとしては存在しない、ヴァーチャルな存在感かもしれない。そのような不安を前にして僕にできることは、結局は自分の足元から考え抜くことなのだろうと思っています。

投稿 わるねこ | 2005年12月 7日 (水) 00時34分

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