プラトン「パイドン」岩田靖夫訳(岩波文庫)
「パイドン」プラトン著.岩田靖夫訳(岩波文庫)
色々と読んでいると、西洋的なものの考え方の源流に触れたくなって、ふらっと読んでみた。ふらっと読んでいい書ではないんだけれども、立川で見つけた中央線的な喫茶店で僕はこの書を一気に読了した。ちなみにその喫茶店の名は「あちゃ」で、立川で唯一中央線的な店である。僕はここで原初の音色をもつディジュリドウを聴きながら、原初の思想に触れたのである。
この書は、「魂」すなわち「意識」あるいは「こころ」の存在論的証明に関する、ソクラテスと弟子との対話篇だ。その対話を、ソクラテスの死後、対話に居合わせたパイドンがエケクラテスに伝えるという形式。おそらく、プラトンはパイドンに語らせることにより、僕ら(エケクラテス)に語りかけ、問いかけている。
一見したところ素朴な議論である。哲学と信仰、信念と論理などが一緒くたになったままで話が進み、終わる。
僕ら後世に生きるものからすれば、この本は既に「歴史」、あるいは「かつていた場所」であり同時進行的な議論ではない。だから、僕らはそこに二元論なり、観念論なり、独我論なり、ロゴス主義なり、記号論なり、さまざまな西洋的なものの考えたの萌芽を(人為的に)見いだすことができる。しかし、僕の事前の予想に反して、その思考の源流はトップダウン的な直感にあったのだ。この点では東洋的なものの考えたとその出発を同じにしているような気がする。しかし、彼らはこの直感を疑うという方ことから始める。そして、彼らは「分ける」ことによって、事物の存在を証明する。「分ける」というプロセスを進めていけば、いつかそれ以上分けられない「本質」に出会うのである。これを演繹すれば、全ての存在は証明されるのである。しかし、こうやって最後に「魂」や「美」、「善」の不滅の存在を証明してみせたこの書によって、彼らは逆にここから永遠に隔絶させられたのだという気がしてならない。
ちなみに、この本はよくよく読んでみると詩的なまでのメタファーが隠されており、美しい議論だと思う。訳もいいのだろう。
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コメント
自分は18歳で大学の近くの学生寮に入って5年間を過ごした。寮生は約50名。先輩に哲学科の人が4人いた。みんな、井上忠先生に弟子入りしてギリシア哲学を専攻した。自分も関心は惹かれたものの・・ せいぜい「饗宴」を、意味もわからずに読んだ程度だった。一方で、ドイツ語、南原実先生の「神秘思想史」のゼミがあり、それにも興味を惹かれた。プラトン、プロテイノス、ヤーコプ・ベーメ、リルケなどが教材に出てきた記憶がある。が、それも不勉強に終わった。なにしろ、怠惰な学生だったもので。
だが、あのころの志向性は自分の中で生き続けている。自分が精神医学を選んだ背景には「神秘体験」、あるいは「自己変容体験」なるものへの関心があったと思う。だから、その後、「世俗的」な精神医学の世界に長居していて、自分の志向性が満たされないことを漠然と感じつづけていた。
唐突だが、東山魁夷先生のことば、「自然は心を写す鏡」ということばを最近知った。神経科学者なら「心は自然を写す鏡」というのではないだろうか? しかし、東山先生のほうが正しい、と自分はいま、思っている。「こころが全てなのであり、自然はそれを映し出しているに過ぎない」と。この言葉の含蓄は極めて深く、自分はまだそれを説明できないでいるが。
TKHT君、もしかしたら、いつか貴君とこんなことまで 語り合えそうな気がしているんです。
投稿 R.T | 2006年1月21日 (土) 16時55分
自分は18歳で大学の近くの学生寮に入って5年間を過ごした。寮生は約50名。先輩に哲学科の人が4人いた。みんな、井上忠先生に弟子入りしてギリシア哲学を専攻した。自分も関心は惹かれたものの・・ せいぜい「饗宴」を、意味もわからずに読んだ程度だった。一方で、ドイツ語、南原実先生の「神秘思想史」のゼミがあり、それにも興味を惹かれた。プラトン、プロテイノス、ヤーコプ・ベーメ、リルケなどが教材に出てきた記憶がある。が、それも不勉強に終わった。なにしろ、怠惰な学生だったもので。
だが、あのころの志向性は自分の中で生き続けている。自分が精神医学を選んだ背景には「神秘体験」、あるいは「自己変容体験」なるものへの関心があったと思う。だから、その後、「世俗的」な精神医学の世界に長居していて、自分の志向性が満たされないことを漠然と感じつづけていた。
唐突だが、東山魁夷先生のことば、「自然は心を写す鏡」ということばを最近知った。神経科学者なら「心は自然を写す鏡」というのではないだろうか? しかし、東山先生のほうが正しい、と自分はいま、思っている。「こころが全てなのであり、自然はそれを映し出しているに過ぎない」と。この言葉の含蓄は極めて深く、自分はまだそれを説明できないでいるが。
TKHT君、もしかしたら、いつか貴君とこんなことまで 語り合えそうな気がしているんです。
投稿 R.T | 2006年1月21日 (土) 16時57分
自分が精神医学を選んだ背景には「神秘体験」、あるいは「自己変容体験」なるものへの関心があったと思う。
やはり、僕だけではなかったんですね。僕は「どうして精神科医になろうとしたのか?」と問われると、いつも答えに窮してしまいます。結局、うまい言葉がみつからずに「ただ、何となく」と答えてしまうことが多いです。ただ、以前から事物の裏にあるもの、見えないもの、あるいはそういったものを真面目に追求している人々に対して強いシンパシーを感じていました。いつか、自分もそういう世界に身をおきたいと。学生時代に、Schizophreniaの患者さんたちが切迫した病の状況で自己や世界に関する切実な問いを発するのを聞いたときは、人ごとには思えませんでした。結局、僕はほとんど迷いもせずに精神科の門を叩きました。僕も学生時代は怠惰な生活を送っていたので、哲学や、脳科学に触れたのは精神科に入局した後のことでした。もともと拡散的に勉強する方が自分に向いていると思っていたので、哲学にせよ、脳科学にせよ、芸術にせよ、自由に出発点を定めることが許容される精神科の雰囲気の中で、自然とこのブログに書いたような思想に惹かれることになったのだと思います。
今は浅薄ながらも自由に勉強できる自分の立場を謳歌していますが、いつかは自分の描く軌跡を一本に定めなければいけないな、とも思っています。それは、怠惰で移り気な僕にはずっと先のことかもしれませんが、このブログで先生からコンタクトを頂けたのは、本当に幸運だったと思っています。厚かましくも、いろいろとご相談させて頂くかもしれません。僕よりもずっと先を歩く先生方の背中を追いつつ、勉強し考え続けようと思っています。2月15日にお会いできるのを、楽しみにしております。
投稿 わるねこ | 2006年1月22日 (日) 02時45分