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2006年1月 3日 (火)

メモ

今日でお正月も終わり。明日からまた怒濤の生活が始まる。

「脳の情報表現 ニューロン・ネットワーク・数理モデル」(朝倉書店)
難かしい。途中の数理モデルはほとんど理解できなかったが、Ad Aertsenによって書かれた最終章は興味深い内容だった。脳内のいかなる物理的現象が情報をコードしているのか?彼は情報はニューロンの発火のタイミングには存在せず、最終的にはニューロンの組み合わせにしか無いのだと述べる。ニューロンの活動の時間的パターンが興味深いのは観察者にとってであり、ニューロンそれ自体は前のニューロンのグループの活動を受けて発火しているだけにすぎないのである(そうなると同期は付随現象epiphenomenonでしかない可能性もある)。我々はこのようなプロセスを観察して同期検出(coincidence detect)していると言っているのだと。しかし、ニューロンの発火の中で同期した一斉射撃(Synchronous volley)に至ったものだけがニューロン空間で生き延びることができる。生き延びて次のグループのニューロンへ活動を伝播したものだけが、意味をもつことになる。
安易な解釈に陥りやすい僕にとっては何度も読む価値があった。

Neuenschwander S, Castelo-Branco M, Baron J, Singer W.Feed-forward synchronization: propagation of temporal patterns along the retinothalamocortical pathway.Philos Trans R Soc Lond B Biol Sci. 2002 Dec 29;357(1428):1869-76.
神経活動のシグナルの時間的パターン(同期活動)がfeed-forward型にReina-LGN-Visual Cortexという経路で伝搬されるという話。しかし、このよう神経活動の時空間的パターンと情報のコーディングの問題はまだほとんど分かっていないという。

Lamme VA, Spekreijse H. Neuronal synchrony does not represent texture segregation.Nature. 1998 Nov 26;396(6709):362-6.
実はV1の神経活動の同期がfeature binding、特にtexture segragation(図と地の分離)を担っていないのだという話。このような情報処理プロセスはretinaのレベルで行われている可能性だってあるという。

以下、気になった引用文献をメモ。暇ができたら読もう。

Shadlen,M.N. & Movshon,J.A.Synchrony unbound: a critical evaluation of the temporal binding hypothesis. Neuron. 1999 Sep;24(1):67-77, 111-25.
同期というパターンが情報をencodeするのか?それとも、単なるepiphenomenonなのか?という議論があるらしい。

Singer W. Neuronal synchrony: a versatile code for the definition of relations?
Neuron. 1999 Sep;24(1):49-65, 111-25

Rickert J, Oliveira SC, Vaadia E, Aertsen A, Rotter S, Mehring C. Encoding of movement direction in different frequency ranges of motor cortical local field potentials.
J Neurosci. 2005 Sep 28;25(39):8815-24.

脳の情報表現では、神経回路網の複数の時間スケールにまたがったダイナミミクスが同時に走っている可能性がある。

Gewaltig MO, Diesmann M, Aertsen A.Propagation of cortical synfire activity: survival probability in single trials and stability in the mean.
Neural Netw. 2001 Jul-Sep;14(6-7):657-73.

今日の音楽:Sonic Youth"Schizophrenia"(From CD"Sister")
i-tunes music storeにてDL。昔はよく聴いていたSonic Youthだが、こんなタイトルをもった曲があったとは気づかなかった。でも、歌詞がよく聞き取れず、どんなことを歌っているのか分からないのが残念。

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コメント

 ここには次々に興味深い文献が紹介されてくる。ありがたいことです。
 
 システムズニューロフィジオロジーをやっている研究者たちが何よりも、
何よりも前にやるべきことがある。
それは「意識現象(主観的体験)」の特性を省察し、
「情報現象」を定義し、
両者の関連を洞察する作業である。
意外なことに、また困ったことに、このことはまだ研究者間での共通認識となるに至っていない。

 上記の作業を徹底しないかぎり、
彼らの観察は神経現象の表層=エピフェノメナをなぞるだけになり、
ことの本質を見抜けないで終わる。

投稿 R.T | 2006年1月 5日 (木) 12時09分

「意識現象(主観的体験)」の特性を省察し、「情報現象」を定義し、両者の関連を洞察する作業

R.T先生の言う問題は主観的体験の異常を取り扱う科学である精神医学においても言えることなのかもしれませんね。精神科医になり精神病理学の勉強をしていた頃、神経生理学や認知科学に興味を持ち色々と文献を読み始めたのですが、両者に共通の言語が見当たらずに途方に暮れた記憶があります。そこで扱われていたのは主に外延的で数値化できる情報のみでした。やはり、ボトムアップ的な積み重ねだけで主観的体験の本質に迫るのは不可能のように思われます意識や主観的体験は、脳がその来歴および環境との相互作用の中で自律的に生み出す情報なのでしょうが、科学がそのような内包的あるいは意味的な情報を取り扱うことができるのはまだ先のことなのかもしれません。。システム神経生理学や計算論は大変参考になるのですが、視点を固定させない思考だけは保ちたいと思います。

投稿 わるねこ | 2006年1月 6日 (金) 00時19分

< 科学がそのような内包的あるいは意味的な情報を取り扱うことができるのはまだ先のことなのかもしれません。。>

また年寄りの繰り言をいわせてください。

 ここでなにげなく用いられている「意味的な情報」ということば。
なにげなく使われていますが、では科学が将来取り扱い対象とするという「意味」とはどういう現象なのか? また「情報」とはどういう現象なのか? 
 科学がこれを取り扱う気があれば、それは今すぐにでも取り掛かれるのです。
できない、と感じられてしまうのは何故かというと、
「現象としての『意味』とは何か、現象としての『情報』とは何なのか」を明確化しないで、
まるで日常語として「自明のこと、わかりきったこと」である
かのように思っているからなのです。

 別な表現をすれば、「意識現象」を明らかにするために神経科学が必要なのではないのです。「エピフェノメナの神経科学」を解体して「現象の本質に迫る神経科学」に再構築するために「意識現象(主観的体験)」の、主観の側からの現象学的解明が必要とされているのです。
 TKHT君がおっしゃるとおり、トップダウンでいくしかないのです。また別な表現をすれば「神経科学者」である前に「哲学者」であることが必要とされる時代に入っているといえるのではないでしょうか。

 すると 「意識現象の情報論的単一性とは何か」「この単一性はどのようにして神経系の中で実現されるか」、これを問え、という命題が浮かんでくるはずなのですが。
 神経現象の謎の核心はここにあるのですよね? そうですよね、TKHT君?

投稿 R.T | 2006年1月 6日 (金) 10時33分

漠然とした問題意識が形になっていきます。僕は先生にはいつも道標を与えられているばかりです。
そう、先生の厳しいご指摘の通り、「意味」という言葉を僕は無批判に使用しています。循環論的で厳密な定義にはほど遠いと思いますが、僕自身は「意味」的な情報を「生物が脳の神経活動と内部および外部環境との相互作用のダイナミクスの歴史の中で自己組織的に構成され、それぞれの固有の来歴をもつ個体にとってのみ認識されうる情報」というように考えていました。このような考えをもつにつれ、ボトムアップ式の理論構築では決してこのような生物固有の現象領域にはたどりつけないのではないかと考えていました。情報を構成する主体とこれを認識する主体が不可分であるという前提から出発しなければならないんですね。そうなると必然的にシステム内部からの視点が必要になります。この点でトップダウン的なアプローチも絶対に必要だと思います。そして、究極的にはこれらの双方向的(というより多方向)なアプローチを統合したいという欲求があります。既存のいわゆるボトムアップ的な手法ではこのようなアプローチは決してとり得ず、だからこそ自明とされた前提さえも疑うという、方法論自体から再構築するプロセスが必要になるのですね。哲学と科学という区分を超えた知の領域。確かに僕はそこに憧れたのでした。それは陳腐な表現を超えた「新しい科学」と呼び得るのかもしれません。
その目標は「一人称的で、高度に複雑でありつつ統合されたシーンを形成する意識現象という体験がいかにしていかにして神経システムの中で成立するのか?」という問いであると考えていました。しかし、先生のおっしゃる通りまず「意識現象の情報論的単一性とは何か」ということも問わなければ「この単一性はどのようにして神経系の中で実現されるか」という問いに答えたことにはならないんですね。

投稿 わるねこ | 2006年1月 7日 (土) 00時36分

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