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2006年2月12日 (日)

neuroscience and psychotherapy

Thomas Fuchs.Neurobiology and psychotherapy:an emarging dialogue.Current Opinion in Psychiatry 2004,17:479-485
神経科学と精神療法の関係に関する考察。脳機能画像、シナプスの可塑性、explicit learningとimplicit learningなどの認知科学的なモデルや神経科学における様々な所見が精神療法の技法の洗練化に貢献しており、精神療法はもはや神経科学を無視できなくなりつつあること。また、精神療法(例えばCBTなど)の過程でPETやf-MRIで計測されうる物理的な脳の変化が確認されつつあることなどから、著者は神経科学と精神療法の対話が進み"neuro psychotherapy"あるいは"neuro psychoanalysis"という新しい領域が発展するのではないかと期待を表明している。third person pespectiveな神経科学が精神療法を拘束し、逆にfirst or second person perspectiveな精神療法が神経科学に有用なデータを供給するという相互拘束的な図式はVarelaのNeurophenomenologyを彷彿とさせるが、著者は「精神療法が最後に寄るべき学は心理学であり続けるべきだ」という宣言で締めくくっており、Varelaほど野心的ではない。

ちなみに、Neuro psychoanalysisという学会が2000年に設立されており、学会員は25カ国、400人におよぶという。代表の一人は情動の神経科学で有名なあのPankseppで、学会誌の編集委員にはDamsioやLibet、E.Kandell、Ramachandran、Wolf.Singerなどの神経科学者たちが名を連ねている。
Neuro Psychoanalysis

2年ほど前にフロイトの抑圧を認知心理学的なモデルと機能画像を用いた実験で確認しようとしたScience論文も読んだが、フロイトの再評価の潮流が高まりつつあるのかもしれない。
Anderson MC, Ochsner KN, Kuhl B, Cooper J, Robertson E, Gabrieli SW, Glover GH, Gabrieli JD.Neural systems underlying the suppression of unwanted memories.
Science. 2004 Jan 9;303(5655):232-5.

そういえば、今年はフロイト生誕150周年。今後、色々と面白い動きがあるかもしれない。動向を追ってみようと思う。

ちなみに、僕がこのブログを書き始めたのも精神病理学と脳科学の間にあるギャップに漠然とした危機感を覚えたからなのだが、neuro-psychopathologyなんていう言葉は一度も聞いたことがない。おそらく、精神病理の人よりも心理の人の方が危機感が強いのだろうし、時代に合わせて学を洗練させていこうとする雰囲気が共有されているのだろう。学問的に孤立していた期間が長かったことも一因かもしれない。もちろん、名を変えただけで新しい学問ができるわけがないし、精神病理学は精神病理学でいつも他領域の学問的な進展に敏感に反応してきたのではないか?少なくとも20年くらい前までは。

今日の音楽:Tim Hecker"Mirages"(CD)
abstractかつambientな音景を構築する弛み無いNoiseの流れ。90年代後半からの音を特徴づける一つの傾向は、80年代では完全に排除されていたnoiseをむしろ意図的に組込んでいる点だと思っている。無秩序で無意味に聴こえるノイズから、情動に訴える音景を構成するという発想は音楽シーンにおいては革命的な転回。ヴァイナルレコードの時代、僕らはnoiseとともにあった。80年代のデジタル媒体の勃興とともにnoiseは悪しきものとして、一度は駆逐される。しかし、あたかも認知におけるnoiseの担う役割の発見と同調したかのように、10年ほど前からデジタルに構成されたnoiseが再びその姿を音楽の中に現し始めた。一聴したところ、僕らがそこに音楽を見いだすのは難しいのだけれど、何度か聴き込むにつれて音景が自発的に浮き上がってくる。僕らの脳は、自然に、困難なくノイズから音楽をデテクトする。

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精神療法って、なんだろう?
ひろーい視野に立てば、それは・・・ 

生命としての存在としてのヒトとヒトの、
ある種の交流、
こころとこころ(ある場合にはからだとからだも含めて)の連鎖反応

あくまで、体験と体験の交流・連鎖反応の過程

その交流・連鎖反応過程の脳科学?!ですか?

だから、脳一個を観てても、わかりっこないんだよ、きっと
おそらく 宇宙全体をみなきゃ わかりっこない

投稿 R.T | 2006年2月13日 (月) 19時18分

(つづき)

宇宙全体 というのは、

150億年という時間や
その間に展開されてきた、生きとし生ける生命たちの物語、
その中で この一瞬を生きている「わたし」と「あなた」
という存在の謎も含めて、
ってことだよ


投稿 R.T | 2006年2月13日 (月) 20時53分

意識とは何か、僕が僕であり、あなたがあなたであるというまぎれも無いこの感覚(体験的な事実)はどのようにして生まれてくるのか?脳の役割は?その進化論的なプロセスは?僕らの生きる社会との関係は?僕らが生きる世界とは?統合失調症とは?このようなことを、僕の小さい脳で考えていると、ときどきめまいを覚えます。
結局のところ、脳科学というフィルターであったり、進化論であったり、はたまた宇宙論であったり、心理学であったり、あるいは日常の生活体験そのものであったり、僕らはある視点からでしか事物の核心に迫ろうとすることはできません。そして、神の視点など、絶対にとれない。
考えようとしていることは余りに大きいのに、僕らがとりうる視界は余りに小さい。僕らの目が届く範囲は悲しいほどの距離でしかないのに、目指すところは果てしなく遠い。皮相な一歩を進めるほどに、めまいは強くなります。しかし、僕らは認識する生き物だから、この問いから目をそらすことができない。
認識の木の実という聖書の喩えは、よく言ったものだと思います。人間は昔からずっと同じことを考え続けているんですよね。
脳科学なんてなくても、昔の人は詩的な言葉で表現している。僕らは周辺をぐるぐると周りながらも、ほとんど先には進んでいないのでしょう。

結局のところ、僕には「僕という意識がどんなものであるのか知りたい」という抑えられない欲求があり、そして、そんなことを考えたり、あるいは考えを聴くのが楽しいのです(ときどき苦しくなりますが)。

ちなみに、どうせ読まないので滅多に買わない「現代思想」で、最近思わず手に取ってしまったのは、「宇宙論との対話」と「ポストゲノムの進化論」でした。どちらも、僕らの存在の基盤に目を凝らそうとしているんですね。

投稿 わるねこ | 2006年2月13日 (月) 21時43分

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