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2006年8月

2006年8月21日 (月)

東北

00000089_1先週末は密かに休みをもらい、高校時代の友人とともに、下北半島にある恐山と秋田県田沢湖近くにある温泉、鶴の湯を訪れてきた。

新幹線で八戸まで3時間。友人の大遅刻のため、行きの電車は一人きりで、なぜか持参していた"Synchronization"というタイトルの本の1〜2章を読む。八戸から恐山まではレンタカーで4時間ほど。霊場に近づいたとき、車内では坂本龍一の"Sweet Revenge"が流れていて妙に周囲の雰囲気に合っていたのだが、最初の門をくぐるといきなり空気が変わった。こういうのは久しぶりだ。

恐山の夏の大祭(7月、10月)は既に終わっていて、イタコは山にいなかったけれども、霧がかった恐山は、とてもこの世のものとは思えない雰囲気。きれいな宿坊に宿泊して、意外に豪勢な精進料理を頂いたり、温泉につかったり、早朝のお勤めをこなしたり。恐山でカシャカシャと写真を撮っていたら、硫黄のせいか突然カメラがプルプルと震えだし、以後まったく言うことをきかなくなった。
予想に反して、観光客は少なかった。宿坊のお坊さん曰く、「修学旅行はお断り」という姿勢が妙にうれしい。子供がくるところではないと思う。それでも、境内前の売店では「恐山盛り」の「合掌アイス」なんてものも売られており、昔よりだいぶ観光地化しているのかもしれない。ちなみに、ここで買ったお香は、香りも良くて、火が消えると聖字と地蔵の姿がボッと浮かび上がる有り難い工夫もなされており、ついうれしくなって2箱ほど購入。

鶴の湯では、運良く本陣に泊まることができた。昨冬の雪崩の影響も無いようで、僕の期待をはるかに超えた一軒宿だった。夜は星がきれいで、山と虫と川の音しか聴こえない。この2日間で何回、お湯につかっただろうか?囲炉裏の側に腰掛け、美味しい田舎料理を頂いた。

「国内はいつでも行ける」と考え、海外を中心に色々と回ってきたけれども、今回の旅で訪れたどちらもが、今までに味わったことの無い雰囲気をもった場所だった。
うーん、東北は本当に面白い。

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2006年8月17日 (木)

Neural Darwinism

明日は、田沢湖の鶴の湯に行ってくる。

Gerald EdelmanのTNGSまたはNeural Darwinismについて、ざっくりとまとめてみた。細かい点は大分はしょっているけど、大体こんな内容だと思う。

○選択システムとしての脳
 脳は、身体で最も複雑な構造をそなえた臓器である。基本的な構造は遺伝情報によって決定されているが、脳は可変性を有しており、経験と学習を通じた変化が蓄積するため、個体ごとの差異は膨大となる。このような複雑性や可変性は単なるノイズと捉えるべきではなく、むしろ私たちの多様な脳の機能とも深く関係しているものと考えられる。このような脳の複雑性が進化の過程で獲得されたことは、もはや疑いようのないことである。DNAの存在が知られていなかった時代、このような可能性を最初に指摘したのがダーウィンであった。ダーウィンが発展させた思想は、彼の個体群思考という概念に強く刻みこまれている。すなわち、多様な異種性をもつ個体群が集団内で生き残りをかけて競争し合う過程で、選択が生じることによって、環境の中で有効に機能する生体の諸構造、ひいては生体組織の全体が出現するという概念である。そして、このような選択のプロセスを自然選択natural selectionと呼んだのであった。選択主義は、多様性diversity、増幅amplification、選択selection、縮重degeneracyという4つの原理によって特徴づけられる。
 Edelmanは、ダーウィンの個体群思考あるいは選択の原理が、種のレベルだけではなく、個体レベルの様々な生物学的現象においても認められる普遍的なプロセスであると仮定した。つまり脳を選択システムとして捉え、自然選択主義的な観点から脳の構造と機能に関する包括的な理論を構成した。理にかなった理論とは、脳の主要なメカニズムを支配している諸原理を記述できる理論のことである。そのような理論ないしモデルの一つに、初期の認知主義では脳がコンピューターあるいはチューリングマシンのようなものであるとみなす考え方が存在した。そうした教示主義的なモデルがプログラムとアルゴリズムに従うのとは対照的に、個体群思考に基づく脳のモデルは、多様な要素ないし状態からなる膨大なレパートリーの特定の要素ないし状態の選択のプロセスに従っている。それは必ずしも中央演算装置のような特権的なメカニズムを必要とせず、システムを構成する互いに結ばれた要素どうしの関連性や協調性の中から、おのずと立ち現れる自己組織化のプロセスである。このようなモデルを、Edelmanは、神経群選択仮説Theory of Neuronal Group Selection:TNGS、または
神経ダーウィニズムNeural Darwinism(以下TNGS)と呼んだ。TNGSは、1978年にV.B.Mountcastleの編纂した"Mindful Brain"に収録された論文、"Group selection and phasic re-entrant signalling:a theory of higher brain function."において初めて提唱された。

○TNGSの3つの原理
 TNGSにおける選択の単位は、神経細胞群neuronal groupである。数百から数千の互いに結合した神経細胞群のシナプスの結合強度の可変性を通して、神経細胞群ダイナミクスな変化がもたらされる。このような選択のプロセスは、以下の3つの原理からなる。

1. 発生選択の原理developmental selection
 遺伝的に条件づけられた神経解剖構造が確立される初期段階において、ニューロン群のシナプス結合パタンに膨大な多様性が蓄えられる。これは発達の初期過程にみられる神経細胞の移動、細胞死、軸索枝の延長、他の神経細胞との接続、刈り込みなどの一連の後成的なプロセスによる。その結果、脳内に無数の異種性をもつ回路ないしニューロン群のレパートリーが創造される。さらに、これらのニューロン同士のシナプス結合は、胎児の段階からみられる脳の自発的な電気的活動や体性信号によって増強されたり、減弱されるなどして、脳の機能的構造の第一段階のレパートリーが構成される。

2. 経験選択experiential selection
 発生選択の時期と一部重複しながら、個体の死に至るまで続く第二の選択プロセスとして、経験選択が挙げられる。神経解剖学的な主要構造が完成した後も、個体は様々な知覚あるいは運動行為に伴い、外部環境から多様な入力を受け取り続ける。ある特定の入力に対応して、脳内の特定の神経細胞群が選択的に発火し、これらの神経細胞群のシナプス結合の強度は結果的に増強・増幅され、一方で他の神経細胞群との間のシナプス結合の強度は減弱する。このようなプロセスを経て、神経解剖学的な主要構造が保たれたままでも、神経回路の機能的結合性が変化し続けることになる。後述のように、これらの経験を通じたシナプス選択のプロセスは、価値システムによる選択圧によって拘束されている。

3. 再入力性マッピングreentrant mapping
 発達の過程から経験を通じて、再入力(reentry)は、局所および複数の脳領域間における並列的かつ双方向的な神経回路を介した再帰的な信号伝達のプロセスであり、再帰的な神経回路におけるシナプス結合強度の増強プロセスによって生じる。再入力はフィードバックと異なり、単一の固定されたループ内におけるエラー信号の伝達がそれぞれ順番に伝播するというものではなく、またフィードバックのようにあらかじめ設定された付属の誤差関数などもない。再入力は並列する多数の双方向性経路で同時並行的に起こるものであり、その結果分散した神経細胞群の発火活動が同期し、幅広い領域にわたる時空間的な協調性が実現される。再入力性回路において知覚カテゴリー化や単純な学習機能が実現されること(Chen,Edelman et al,2003)や、分散した領域の活動が統合されることが、Edelmanらによる大規模なsimulation studyによって示されている。

 発達選択および経験選択が脳の複雑性に貢献するのに対して、ダーウィンの進化論や免疫学との直接的な関連をもたない再入力性マッピングは、TNGSにおける中核概念であるとされる。また、上記の選択システムでは、多様性、増幅、選択という基本的な特性に加えて、縮重と呼ばれる興味深い特性が見いだされる。縮重とは、「複数の異なった物理的プロセスが同一の出力を産出するという特性」と定義づけられる。出力の側からみれば、その基盤となるプロセスを求める際に、固有解がただ一つだけではないことを意味する。これは、コンピューターのように教示的で固定されたシステムにはみられない特性である。縮重の典型的な例として、複数のコドンが同一のアミノ酸をコードしているという事実が挙げられる。また、神経組織においては、脳内の異なる神経回路群の活動によって、同様の運動出力がもたらされることや、脳内のある領域が損傷されてもしばしば別の領域によって能力が補填される臨床的事実などが例として挙げられよう。また、同様の現象は免疫系における抗原—抗体反応にも見いだされる。つまり、縮重は、脳だけでなくあらゆる選択システムに偏在する特性であると言える。これらの縮重と再入力性マッピングにより、脳の作動原理を選択プロセスという観点から捉えることが可能となり、コンピューターのようなアルゴリズムによって統制された教示的な組織化を必要とせず、自身の選択プロセスによって機能的構造が決定されるという自己組織化が可能となるのである。

4.価値システム
 上記のTNGSの諸原理や縮重といった特性によって、脳の自己組織化のメカニズムが包括的に説明されうる。この選択のプロセスはランダムではなく、学習機能に代表されるように、脳は環境に適合して、適切な行為を生み出すという一定の方向性をそなえてもいる。このように、脳の選択プロセスを方向付けるもの、あるいは選択プロセスの拘束条件とは、いかなるメカニズムであろうか?Edelmanは、脳の選択プロセスが広汎性上行性賦活系によってもたらされる価値によって拘束されていると想定している。選択システムにおける価値は、ダーウィンの選択圧と相同的な概念である。選択圧は様々な出来事におけるpositiveあるいはnegativeなsalienceを反映し、選択の方向を決定づける。生体における価値は、主に広汎性上行賦活系によって媒介される快・不快や、痛み、感情などによって反映されているものと考えられる。広汎性上行性賦活系は皮質に拡散的に投射し、それぞれの神経伝達物質をすることによって広汎な神経細胞群に同時に影響を与えている。これによって広汎性上行性賦活系を構成する軸索の近傍にある神経細胞が、グルタミン酸の入力を受けて発火する確率に影響を与えている。広汎性上行性賦活系は学習や記憶に影響を与えるニューロンの反応に一定の傾向をもたらし、生存に必要な身体反応を制御しており、このような意味で広汎性上行性賦活系は価値システムと名付けられている。これらの価値システムは、哺乳類の場合、脳幹に位置し、大脳に広く投射するノルアドレナリン、セロトニン、ドパミン、コリン、ヒスタミン作動性神経核などによって構成されている。

TNGSは、ダイナミカルシステムや複雑系の理論を取り込みながら、後にfunctional cluster、dynamic coreという意識の理論に拡張されてゆく。

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松本雅彦「精神病理学とは何だろうか」

親知らずを抜いた。処置中、ひたすら痛いのに、覚醒度が上がるどころかむしろ眠くなった。

最近(再び)読んだ本:松本雅彦「精神病理学とは何だろうか」(星和書店)

精神病理学について考えるときに、何度も立ち戻る本。平易な文章で書かれているが、読むたびにいろんな発見がある。以下、思う所。

 しばしば、精神病理学は客観性や普遍性に乏しい学であると言われる。しかし、精神病理学の歴史を振り返ってみると、時代によって脳神経解剖学、神経病理学、遺伝学、分子生物学などの実証科学の影響を受けながら、時にはこれらを柔軟に取り込んでもきたとも言える。一方では、哲学や人文学、社会学の影響を受けながら、ひたすら心理主義的探索に走った時期もあったようだ。精神病理学は、客観性と主観性あるいは普遍性と個別性のふたつの文化を行きつ戻りつという往復を繰り返してきたと言えるかもしれない。どちらの極に傾倒しようが、行き過ぎた視点には反省的に修正が加えられ、諸学との距離を保ってきた。ときには自身を否定し、理論の大部分が書き換えられることもあった。このような対立する文化の間に揺れながらも、Ey,Hによる器質力動論のような統合を目指すプロセスもみられた。また、チオンピとブランケンブルグは、ベルタランフィの一般システム論を取り入れ、システム精神医学という新たな記述を試みた。日本には、東洋の伝統的な思想を背景にした希有な精神病理学がある。このような精神病理学に内在する多様性やしばしばみられる混乱を松本雅彦は「方法論的雑居状態」と表現しながらも、この終わりの無い営みをむしろ肯定的に捉え、多様な「遊び」として位置づけた。しかし、近年の神経科学や分子生物学における知見の蓄積にはめざましいものがあるものの、精神病理学はこの四半世紀にわたって一種の閉塞状態に陥り続けているようにもみえる。症候学を基礎とする精神病理学がむやみに目新しさばかりを追い求めればいいというものではないが、今日の精神病理学が抱える閉塞感は、「方法論的雑居状態」の中に自らの置き場を見失ってしまったかのような不安定性からもたらされる危機感が背景にあるようにも思えてしまう。そして、このような不安定性は、僕たちの臨床にまで浸透しているように思える。

今日の映画:今敏監督「千年女優」(DVD)
この年は、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」、押井守の「Innocence」と、今敏の「千年女優」など、優劣の付けがたい作品が沢山あって、アニメの当たり年だったのだろう。いずれの映画でも背景の緻密な描写に比べて、生き物はのっぺりとしたアニメ調で、アンバランスなくらいあっさりと描かれていることに気づいたのだが、この辺りの描き方が欧米のCG映画との決定的な違いだろうか。ディズニーのCGはコミカル過ぎて全く生き物とは思えないし、以前話題になったフルCGの「ファイナルファンタジー」(観ていないが)では、人物の毛穴までリアルに再現されていたというが、逆効果で気持ち悪かったのを思い出した。ゲド戦記の映画板は、単に表現がpoorなだけと聴く・・。

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2006年8月 8日 (火)

ラサ

1号も欠かさず定期購読している雑誌が3つだけある。

「旅行人」という雑誌は、随分前から定期購読している。イエメン旅行でもお世話になった。前回号の特集は「ラサの21世紀」というタイトルだった。個人的な危機感を煽る内容で、この10年くらいでラサは週単位の猛烈な勢いで変化し続けている「最先端を行く街」であること、先月ついに開通した「青蔵鉄道」によって、これまでにラサと呼ばれてきた街は消失するであろうこと、しかし一概に変化を非難するものでもないということなどが書かれていた。ああ、早くチベットにも行きたい。
「National Geographic英語版」。大きな写真が豊富で、旅行中の会話のネタ元としても有用。内容にもよるが、これが届いた週は、車ではなく電車に乗るのが楽しみになる。
もう一つは、漫画の少年誌。

近頃は、Kelso、Bresslerの論文を集中的に取り込み中。
Kelsoの論文は、脳の神経活動のダイナミクスや非線形性に関する論文で必ずと言っていいほど、引用されている。色々と読んでいるが、一言で言えば"coordination dynamics"で、脳内の分散した領域のにおける発火事象の共同現象の原理について実験結果をふまえつつspeculativeに述べられている。このようなcoordinationはcognitive coordinationとneural coordinationという階層的な二つのレベルで記述されているように思われる。そのどちらのレベルにおいても、meta-stabilityとか、quasi-attractorとか、oscillationといった現象が見いだされる。数学的な素養の無い僕にも分かり易い内容。Edelmanのneural darwinismやreentrant interactionなども積極的に取り込んでいる。後日レビューの予定。

最近は、ある先生の直接的な影響で、仏教あるいは東洋思想関係の本を読み始めた。大して読んでもいないくせに、末端をちょっとかじっただけの段階で、あれこれ自分のブログに書くのは恥ずかしいことなのだけど、驚くべきことがいくつもあり、書かずにはいられない。基礎的な概念や漢字の知識が乏しい僕にはなかなか理解しがたい面もあるのだが、読み進めるうちにVarelaが仏教や龍樹の思想に傾倒していった理由が分かるような気がする。意識状態のコントロールとか、関係論的な「縁起」などの概念は、上記のKelsoや、Varela、Edelmanの論文と同時並行的に読んでいても、抵抗なく頭に入ってくるような気もする。とりあえずは、同じ四国出身の空海の思想を中心に、松長 有慶や松岡正剛、井筒俊彦、鈴木大拙などの本をゆっくりじっくり読んでいく予定。

最近の楽しみ:最近NHKとBBCが5年かけて共同制作したというドキュメンタリー、"Planet Earth"は秀逸な予感あり。

今日の音楽:Bruno Battisti D'Amario"Samba para ti"(LP、再発)
大学時代、必死に探したがついに手に入らなかった作品が、再発されている。1974年、イタリア。洒落た音楽はもういいのだけど、これは別格。670

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2006年8月 3日 (木)

Intersubject synchronization of cortical activity during natural vision

最近読んだ論文をメモ。

Hasson U, Nir Y, Levy I, Fuhrmann G, Malach R.I:1634-40.Intersubject synchronization of cortical activity during natural vision.Science. 2004 Mar 12;303(5664)

Pooneilさんのところで見つけたイスラエル人のf-MRI-studyのなかなか面白いscience論文。"intersubject synchronization"という言葉が凄い。

5人の被験者のそれぞれに同一の映画("The good,the bad, and the ugly"という1966年の古い映画。どうやら西部劇らしいらしいが、僕は観たことはない。)を見せたとき、同一個体の脳内の複数の領域の活動に相関関係(inter-region synchronization)が認められた。さらに、5任の被験者の皮質活動のspatio-temporal patternの間にも、高度な相関関係(intersubject synchronization)が認められ、そのような相関関係は視覚野のみならず聴覚野や連合野などにも広く認められた。
また、ある被験者のvoxel-baseの活動パタンのタイムコースが、別の被験者の皮質の活動パタンを有意なpredictorとなること(intersubject correlation)が確認された。さらに、面白いのは被験者の皮質の活動パタンから、映画のシーンの特定の属性を逆推測することが可能であった(reverse correlation)。このreverse correlationで得られたマッピングは、conventionalな皮質のマッピング構造と類似していたという。例えば、mid-central sulcusで得られた活動パタンのタイムコースの一区間から16個のsaliencyを選び出し、それらに時間的に対応した映画のシーンを調べてみると、16個中15個までがデリケートな手の運動を伴うシーンであったというような・・。また、fujiform gyrusは「顔」がクローズアップされるシーン、collateral sulcusは「建物」が出てくるシーンなどに選択的であった。

所見。この論文が単純でpre-determinedな課題や刺激を用いていたらそれほど面白い結果にはならなかっただろう。しかし、ダイナミックで複雑なnatural visionに曝されたときにも複数の脳の少なくともある一定の領域が同様の活動パタンを示す(intersubject synchronization)という結果は、よくよく考えてみると当然予想されることながら、こういうデータとして示されると新鮮だった。僕たちが同じ映画を観ているとき、少なくとも「脳」は同じものを「みている」ということになる。Hassonの考えたreverse correlationで言えば、脳の活動パタンから世界のある部分を再構築することがすることがあながち不可能ではないのかもしれないなどと考えてしまう。今後spontaneous activityとか、resting stateとか、こういうfree viewingのデータは増えてくるだろう。

今日からしばらく、KelsoとBresslerの論文を読み込む予定。最近読んでいたBasarとか、Hakenの論文の流れで。

今日の音楽:手嶌葵「テルーの唄」
外伝以外は全部読んだ。主題歌はいい。ただし、映画は原作とは全くの別もの。

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2006年8月 2日 (水)

ぼやき、つぶやき

昨日は大学の図書館に行って、(ヤケクソになって)色々と論文を漁る。
僕が勤めている病院がアクセスライセンスを保有するデータベース(Ovid,Proquest)は全く利用価値が無いので、欲しい論文がすぐに手に入らない。うーん、こういう生活がいつまで続くのだろうか・・。

そんな中、Kelsoを中心にいくつか面白そうな論文がみつかる。

僕は、「意識の科学と統合失調症(精神病理学)」というところから神経科学に興味をもって、色々と調べていたのだけれども、このような試みはもはや空中分解しており、今は関連した諸領域を細々と調べている。やはり、実験手法とか、ベースとなっている原著を押さえておかなければいけないんだと思う。

早く自分の手を動かしたいのだけれども、当分先になりそうだ。

8/26のMetamorphoseには、クラウトロックの極北とも言うべきManuel Gottsching(マニュエルゲッチング)が来日し、あの伝説的な「E2-E4」(Sueno Latinoとか、Derick Mayで再発掘され、リアレンジされたあの曲)をライブで演奏するとのこと。延々と繰り返され、意識に上らない程度の速度でゆっくりと円を描きながら恍惚へと上昇する、あのギターのリフレインを聴くことができるなんて・・。他にも、Pharoah Sandersの生演奏もあるのだから、何らかの「音楽的体験」があってもおかしくはないかも、などと期待。

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