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2006年8月17日 (木)

松本雅彦「精神病理学とは何だろうか」

親知らずを抜いた。処置中、ひたすら痛いのに、覚醒度が上がるどころかむしろ眠くなった。

最近(再び)読んだ本:松本雅彦「精神病理学とは何だろうか」(星和書店)

精神病理学について考えるときに、何度も立ち戻る本。平易な文章で書かれているが、読むたびにいろんな発見がある。以下、思う所。

 しばしば、精神病理学は客観性や普遍性に乏しい学であると言われる。しかし、精神病理学の歴史を振り返ってみると、時代によって脳神経解剖学、神経病理学、遺伝学、分子生物学などの実証科学の影響を受けながら、時にはこれらを柔軟に取り込んでもきたとも言える。一方では、哲学や人文学、社会学の影響を受けながら、ひたすら心理主義的探索に走った時期もあったようだ。精神病理学は、客観性と主観性あるいは普遍性と個別性のふたつの文化を行きつ戻りつという往復を繰り返してきたと言えるかもしれない。どちらの極に傾倒しようが、行き過ぎた視点には反省的に修正が加えられ、諸学との距離を保ってきた。ときには自身を否定し、理論の大部分が書き換えられることもあった。このような対立する文化の間に揺れながらも、Ey,Hによる器質力動論のような統合を目指すプロセスもみられた。また、チオンピとブランケンブルグは、ベルタランフィの一般システム論を取り入れ、システム精神医学という新たな記述を試みた。日本には、東洋の伝統的な思想を背景にした希有な精神病理学がある。このような精神病理学に内在する多様性やしばしばみられる混乱を松本雅彦は「方法論的雑居状態」と表現しながらも、この終わりの無い営みをむしろ肯定的に捉え、多様な「遊び」として位置づけた。しかし、近年の神経科学や分子生物学における知見の蓄積にはめざましいものがあるものの、精神病理学はこの四半世紀にわたって一種の閉塞状態に陥り続けているようにもみえる。症候学を基礎とする精神病理学がむやみに目新しさばかりを追い求めればいいというものではないが、今日の精神病理学が抱える閉塞感は、「方法論的雑居状態」の中に自らの置き場を見失ってしまったかのような不安定性からもたらされる危機感が背景にあるようにも思えてしまう。そして、このような不安定性は、僕たちの臨床にまで浸透しているように思える。

今日の映画:今敏監督「千年女優」(DVD)
この年は、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」、押井守の「Innocence」と、今敏の「千年女優」など、優劣の付けがたい作品が沢山あって、アニメの当たり年だったのだろう。いずれの映画でも背景の緻密な描写に比べて、生き物はのっぺりとしたアニメ調で、アンバランスなくらいあっさりと描かれていることに気づいたのだが、この辺りの描き方が欧米のCG映画との決定的な違いだろうか。ディズニーのCGはコミカル過ぎて全く生き物とは思えないし、以前話題になったフルCGの「ファイナルファンタジー」(観ていないが)では、人物の毛穴までリアルに再現されていたというが、逆効果で気持ち悪かったのを思い出した。ゲド戦記の映画板は、単に表現がpoorなだけと聴く・・。

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コメント

今の時代、精神病理学といえども何らかの形で脳との関係に触れないといけないのでしょうが、精神現象の全てがニューロンの発火現象に還元できるとも思えません(創発現象として)。そういう意味では新しいものを取り入れつつも、是非ともその独自性を維持して欲しいというのが私の期待です。

投稿 ykenko1 | 2006年8月21日 (月) 10時24分

僕もykenko1さんと同じ思いです。精神病理学の面白さは、臨床の学にも関わらず、その自由度の高さにあると思っています。ただ、昨今の精神病理学に漠然とした閉塞感を感じるのですが、Varelaが神経現象学で語ったように、神経科学だけではなく、精神病理学に固有の立場から意識や主観性といった創発的な現象の探求に、何らかの貢献ができるのではないかと思った次第です。

投稿 わるねこ | 2006年8月21日 (月) 21時21分

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