Gerald Edelman"Second Nature"
今日は当直。
Alva NoeとJ Kevin O'Reganによる知覚論の論文を読んでいる。ちょっと前にArational agentさんや、pooneilさんのところで紹介されていて手に取ってみたものなのだが、かなり衝撃的。このあたりは、いずれ・・。
当直中にGerald Edelmanの"Second Nature"を読了。
本作は、前作"Wider than the sky"の姉妹作とも言うべき内容で、Neural DarwinisimやDynamic core仮説などに関する詳細については余り触れられていない。Edelmanの意識の理論の詳しい解説を期待すると、肩すかしに合うかもしれない。むしろ、本作はこれらの仮説と諸学との関連について延べたものである。その意味では、Edelmanの論文や、"Wider than the sky"、"Universe of consciousness"などの著作を既に読み終えた人を対象としているのではないだろうか。したがって、非常にspeculativeな内容であり、いわゆる脳科学の本ではない。ざっと一読しただけなので勘違いもあるかもしれないが、簡単に(無理矢理)要約すると以下のような内容。
本著の内容を一言で言えば、"brain-based epistemology"の可能性、つまり「認識論を(脳)科学化する」試みについて述べたものということになる。実際に、「認識論の自然科学化」というアプローチを提唱した米国分析哲学・論理学の大家クワイン(Willard Van Orman Quine)が全編を通して引き合いに出されており、クワインの言う自然科学の中でも脳科学がその中心を占めるということである。
アプリオリに「実在」する世界に対して、"second nature"とは、さまざまな認知的行為を営む人間(や他の生物)によって認識された世界の諸相やその「知識」を指しているのだと思われる。この辺りは引用が多く、知識の構造、形式や言語との関係などについて述べられている。Edelmanによれば、人類の歴史の中で我々のもつ知識に対して最も大きな影響を与えたのは、間違いなくガリレオとダーウィンである。ガリレオは宇宙を自然科学の言語で記述できるという方法論的可能性を示し、ダーウィンは人間も進化というダイナミックなプロセスの中で自然の中に埋め込まれているということを初めて具体的に示した。しかし、そのどちらにおいても、意識は依然として手つかずのまま残されている。いわば、意識の科学的探求は、ガリレオの描いた弧、あるいはダーウィンのプログラムを完遂するために我々が進むべき道ということになる。それは、意識の基盤となる世界と脳との相互関係の中で絶え間なく持続する神経活動のプロセスが、我々の知識の基盤でもあるのならば、"brain-based epistemology"というアプローチについてまじめに考える必要があるのではないか、ということである。また、それのためにはinstructionalなプログラムによって作動するコンピュータとは全く異なる原理を考えなければならない。その中心として据えられるのがelectionやdegeneracy、reentryなどいったNeural Darwinismの基本原理である。さらに、意識を部分的にそなえた人工物を作成することが可能であれば、それもまたある程度の知識を有すると考えられる。実際に、Edelmanがdirectorを務めるNeuroscience Instituteで試作されたダーウィンという名づけられた機械は、指示的プログラムを必要とせずに、知識をもつ、あるいは獲得するかのような振る舞いを示すという。また、意識の成り立ちについて病理によって照らされる部分もあるという文脈で、いくつかの精神疾患についても触れられている。本作では"brain-based epistemology"の具体的な形式や方法論が厳密に示されている訳ではないが、排他的なものを意図している訳ではないようだ。ちなみに、本作でもEdelmanのフロイトの精神分析に対するシンパシーについて述べられている。
我々が世界との相互関係の中で得た知識、あるいは"second nature"は、人文学と実証的科学という(C.P Snowの言う)2つの文化の中に分断された形で蓄積されている。そもそも、全てを記述することのできる記述言語など存在しないし、現象を再現できる説明なども存在はしない。たとえば、歴史や進化は本質的に一回性の現象として立ち現れ、理論によって再現することなど不可能なのである。しかし、科学的手法によってそのような現象の原理を示すことは可能かもしれない。人間の知識に対して、合理的かつ、実証可能かつ、理解可能な理論的骨格を与えるとするならば、知識の構造や獲得過程における脳の果たす役割を無視することはできない。Edelmanは、Neural Darwinismこそ、このような2つの知識の形態の「離婚」を克服し、"second nature"の起源を探求するための最善の道であると締めくくっている。
おそらく全体を通して30〜40人くらいの引用があり、その半数以上は哲学や人文学からのものだ。クワインの引用が多いけど、本書は厳密な議論が展開されているわけではないので、読みやすいとは思う。
クワインの哲学や科学哲学については、戸田山和久著「知識の哲学」(産業図書)を参照。僕はこの辺りは全くの無知なので、しばらくしたら読んでみようと思う。
今日の音楽:Juzu A.K.A Moochy/Momento(from CD"Momentos")
このアルバムの冒頭を飾る短い1曲は、僕にとっては奇跡的なchill。「何か始まるぞ」という背筋がゾクゾクするような、得体の知れない気分に陥る曲。
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/132728/12286697
この記事へのトラックバック一覧です: Gerald Edelman"Second Nature":
コメント
わるねこさん、second natureの紹介ありがとうございました。それにしても著作、論文が多くEdelmanもproductiveな人ですね。茂木さんは二つの文化の統合はクオリア研究によってと主張していましたが、EdelmanはNeural Darwinismによってなされると考えている訳ですね。ところでコンピュータシュミレーションによって意識の問題にどこまで迫れるのでしょうかね。そのあたり、わるねこさんどう思われますか?
投稿 ykenko1 | 2006年10月15日 (日) 08時44分
現状ではヒトの意識自体をコンピューター上で正確に再現していると言うにはははほど遠いですし、個体の歴史性や状況依存性などを考えると、そういう可能性は低いんじゃないかと思っています。この意味では、コンピューターシミュレーションだけで意識の問題の核心に迫ることは難しいのではないでしょうか。
ただ、最近の論文を読んでいると、計算論的なモデルと神経生理学的な実験を組み合わせているものが多いですよね。この観点からDehaeneのモデルと実験は興味深いのですが、あれは意識にそなわるアクセス可能性という特性を抽出してattentinal blinkというパラダイムの枠組みでモデル化したものでした。そういう意識の計算論的なモデルを考えていくと、当然それをコンピューター上で再現しようとするアプローチも生まれてくるわけで、意識の部分的な特性をコンピューター上で「エミュレート」することは可能だと僕は思っています。
コンピューター上で再現あるいは観察された現象が、神経システムを基盤とする意識と同一かどうかと問われると難しいのですが、やっぱりそうじゃないのだと思います。言うなれば、エミュレーションで観察されたふるまいはneural correlates of consciousnessというよりは、computational correlates of consciousnessということになるのでしょうか。
何だかはぐらかしているようなので、ykenko1さんの質問に立ち戻りましょう。モデル化やそのシミュレーションで得られたデータと生理学や機能画像にる実験で得られたデータとの間の相関が一定の意味をもつのだと思います。神経生理学的な手法や機能画像による研究にも制約があり、意識の問題に対するクリティカルな突破口というものが無い以上、モデル化やコンピューターによる再現というアプローチも、これらの手法と同等の価値をもっていると思っています。それらでどこまで迫れるかということは・・うーん、分かりません(笑)
投稿 わるねこ | 2006年10月15日 (日) 12時07分
computational correlates of consciousnessですか、うまい表現ですね。言わんとする所よく分かります。何故こういう質問をわるねこさんにしたかというとヴァレラの本を読んでいて気になったからです(まだ読了してません、はははは。ですが大変楽しみながら読み進んでいる所です。読み終わったら感想をブログの記事にします)。
ちょっと思いついたのですが、computer上である種の意識のをエミュレートしたとしてそれを確認する方法ですが、ラマチャンドランが『脳の中の幽霊』で書いていた方法を思い出しました。他人の意識を直接体験する方法として、その対象となる相手のニューロンを自分のニューロンに直接連結することで体験できると主張していました。これが正しいかどうかは議論の余地もあるとは思いますが、意識をエミュレートしたコンピュータの回線を何らかの方法で実験者の脳に連結して、それを体験してみる事で確認するというのはどうでしょうか?だめかな〜?
投稿 ykenko1 | 2006年10月15日 (日) 15時10分
おっと、危ない思考実験になってきましたね。でも、こういう話、好きです(笑)ちょっと考えてみました。
コンピューターであれ、他人の脳であれ、それらを被験者の脳と接続することが可能だとすると、被験者にいったい何が起きるのでしょう?はっきりと区別された二つの意識を体験するのか、あるいは一つの意識を交互に体験するのか、はたまた混線して意識が消失してしまうのでしょうか?いずれにせよ、被験者がコンピューターに接続することによってもたらされた意識状態の変化を「これは自分のものでない」、「これはコンピューターによってエミュレートされた意識である」と識別することが可能かどうかは疑問です。もしそれが可能なら、脳は一種のデカルト劇場となり、ホムンクルスのような事態も可能ということになってきますね。
コンピューターのユニットと被験者のニューロンをどのように接続するかはさておいても、少なくとも膨大な回線を用意してコンピューターのあらゆる出力ユニットとニューロンどうしを接続する必要があるでしょう。双方のシステムでタイムラグがあってもいけないでしょう。もしこのような事態が可能だとすると、あくまで直感ですが、被験者には上記のいずれでもなく、結果的には接続前と全く異なる「一つ」の意識状態が体験されるのではないかと思います。被験者にとっては自身の意識とエミュレートされた意識によって引き起こされた変化とを区別できないのではないか、と思うのです。ただし、接続用の回線が細ければ、脳梁離断症候群のような別々の異なる意識状態を呈するのかもしれません。あくまで直感ですが・・。
ブレインデバイスにせよ、入来先生の「道具を使うサル」に書いてある事態にせよ、脳が何らかのシステムに接続され拡張されたとしても、最終的には一人称的な現象としてしか体験されないのではないかと思うのです。なので、他人の意識を「直接」体験するということは難しいのではないでしょうか?もし、ラマチャンドランの考えが正しいとすると、意識の私秘性、一人称性という前提自体を考え直さなければいけなくなりますね。
ykenko1さんの問いについて考えていると、Giulio Tononiのinformation integration theoryという意識の情報論的モデルを思い出しました。これは数式で表現されるのですが、簡単に言うとgradationalな意識の「程度」が情報量の統合能(Φ)によって決定されるというモデルです。ある神経システムの統合能は、システムを構成するニューロンの結合パタンに依存しています。視床皮質系のような双方向的な結合パタンを示すシステムではΦ値は高くなり、基底核のような直列的な結合パタンを示すシステムではΦ値は低くなります。
つまり、システムどうしの接続のパタンによって、どのような意識状態が成立するかが全く変わってくるということです。
投稿 わるねこ | 2006年10月16日 (月) 01時41分
眠れないので(不眠症ではないですが)こんな時間にコメント書いてます。
改めて考えてみるとラマチャンドランの考え方はかなりlocalisticで、action potential中心の考え方ですね。oscillationやholisticな考えは全く欠如しているので、接続するにしてももう少しholisticな接続の有り様を考えた方が良いのかも。
例えばコンピュータ上の意識を自分の意識として感じるとしても、コンピュータ上で表現されている意識の内容がそれまでの自分の意識内容と異なれば、接続をはずしたあとにそれを自覚できるのではないでしょうか?
Tononiのtheoryが本当に正しければコンピュータシュミレーション(またはエミュレーション)も可能のような雰囲気ですね。まあ、正しければの話ですが。
投稿 ykenko1 | 2006年10月16日 (月) 02時45分
きっと日本一のはやさで届けてもらった日本語レビューをみちしるべに、"socond nature"、やっと6章まで読み終えました。この先の峠か藪か、いずれにしても、「この本のヤマはこれからだ」と思いさだめて進んできたら、道の半ばにさしかかっていました。
確かに、"universe of consciousness"や"wider than the sky"を通ってからここにきてみると、まるで小さなカンファレンスの片隅に座らせてもらって、Edelmanのお話をいつものようにうかがっているような気がしてきます。これからもよろしくお願いいたします。
投稿 とりのなかま | 2006年10月23日 (月) 21時21分
とりのなかま先生(ですよね?そう思って、書きます。違ったら、すみません)
あのレビューは勢いで書いたものなので道標どころか、道に迷わせてしまうかもしれません。いつも、夜中に勢いで書いていますので・・・
僕自身にとっては、皆さんにお会いしたおかげで昨年から大きな転機がありました。それもこれも、このブログがきっかけなので、むしろ僕自身の道標であった、といった方がいいかもしれません。
先日の話に出たように、勉強会から研究会へと発展させていければ、また夢がふくらみますね。それでも、いつものあのプライベートな雰囲気も大切にしていきたいと思っています。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
一段落して、一休み中のわるねこより
投稿 わるねこ | 2006年10月23日 (月) 23時47分