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2007年4月

2007年4月30日 (月)

アウトドア

Dsc_0064今月上旬に行った、長野の後楽館という温泉。善光寺の帰りに宿泊した。
サルが温泉に入るということで有名なところ。ちまきがとても美味しい。
山間に佇むひなびた雰囲気の宿と、子供も含めた家族総出での食事の支度は何だか微笑ましかったなあ。

ちなみに、今日は休みだったので、都心のアウトドアショップに出かけてHaglofsのアウターシェルとパンツ、ランタン、LEDライト、高度計つきの時計(BARIDA)などを購入した。
Haglofsは、スウェーデンのアウトドアブランド。機能は当然、デザインも良い。
店員さんに色々と教えてもらった。
明日は、テント(アライか、North Faceか)、シューズなどを購入する予定。

今年の夏は、登山(日本)、トレッキング(海外)をやろうかと思っている。
既に友人の一人とは、燕岳への登山を計画中。
夏に4日間くらい休みがあれば、山歩きのバックパッキングもしてみたいなあ。
誰か、山登りしたい人いたら、声かけてください。

今日読んだ論文
Saxe R. Against simulation: the argument from error.Trends Cogn Sci. 2005 Apr;9(4):174-9.

ミラーニューロンの発見によって勃興した"simulation theory"の熱狂と、伝統的な心理学の系譜を引き継ぎ、着実に機能画像のデータを蓄積する"theory-theory"(theory of mind theoryの略語化か)との間の論争。
現在のところはどちらが正しいか決着がついていない。

この論文は、シミュレーション仮説に対する反論。他者の行為や心的状態を推測する際にみられるエラーは、simulation仮説からは説明ができないというもの。要するに、発達期や特定の課題で、僕らに一定の傾向のエラーが出現するのだから、シミュレーションだけで他者の心的状態を理解しているのではないということらしい。
こうなると、「シミュレーション+理論」というようなハイブリッドも出てくる。
僕たちは、ナイーブ心理学のような「素朴な理論」はもっているのかもしれない。

今日の音楽:小林秀雄「信じることと考えること」(MP3)
最近、兄貴からもらった、小林秀雄の数時間分の大量の講演録音データ。最近は運転中に聴いている。
僕は小林秀雄の著作は何一つ読んでいないし、まだ聴き始めたばかりなのでコメントは避けるが、まず「ペタコロと転がしたような声が素晴らしい」などと思った。これから聴き込む予定。同じデータには、オバマの演説も入っていたのだが、思わずハンドルから手を離してガッツポーズをしたくなるくらい、これはたまげた。

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2007年4月23日 (月)

emulation

今年のGWも、多分どこにも行けないだろうなあ。

現在、social brainとschizophreniaというテーマで、emulationとconsciousnessを絡めて、色々と考えているところ。もうちょっとで見えてきそうなのだが。

Emulation仮説

僕たちは、様々な状況に適応しながら、目的志向的な行為を産出することができる。ある行為を開始しようとするとき、その行為の時間的シークエンスをイメージし、行為によってもたらされる結果を予測することが可能である。さらに、僕たちは他者の行為を観察する際、その意味、文脈、目的を理解し、その行為にともなう結果を推測することができる。このようなプロセスは、普段の生活の中で前理論的に進行し、ほとんど無意識的、自動的に遂行されている。Rizzolattiによるミラーニューロンの発見は、私たちが他者の行為や心的状態を理解する神経基盤の理解に関して、大きな進展をもたらした。ヒトでも、ある個体が特定の行為を行った場合と、他の個体が行う同じ行為を観察した場合とで、共通の神経回路群が動員されていることを示す知見が蓄積している。実際に、他者の行為を観察する際に、運動野における体性局在的に相同的な領域が活動する。また、ミラーニューロンシステムと運動野は、体性局在的に(somatotopicaly)類似したマッピング構造を示すことも確認されている。つまり、他者の行為は、自身の身体性制御システムの上で再現されているようである。このようなプロセスは、行為の観察にとどまらない。僕たちが他者の心的状態を理解する際にも、自身の感情状態に関与する神経回路群が動員されている。つまり、他者の心的状態は僕たち自身の神経システム上でシミュレートされているのである(Galleze)。このシミュレーションのプロセスは、僕らの生活の中でほぼ無意識的、自動的に進行しているものと思われるが、意識的にアクセスすることも可能である。他者の心的状態のプロセスが、自身の心的状態を成立させる神経システム上で進行し、その際モデル化や近似・単純化を経ないという意味で、僕らはシミュレーションとは区別して、エミューションという用語の方がふさわしいと考えている。エミュレーション仮説は、ミラーニューロンを主とする最近の認知神経科学のエビデンスから自然に導かれる結果である。僕たちは、意識をもつ主体であるだけでなく、他の意識ある主体の内部状態をまさに「身をもって」体験することが可能なのである(embodied simulation)。エミュレーション能力のみでヒトの高度な社会認知能力の全てを説明できるわけではないものの、サルでも一定のエビデンスが得られていることから、エミュレーション能力は進化の過程で成立し、ヒトにおいて最も高度なものとなった認知能力なのであろう。僕らをとりまく高度に複雑な社会的環境は、エミュレーション能力の進化における選択圧として作用し、個体間のインタラクティブなエミュレーションの連鎖(resonant emulation)を通して、概念や行為が形成され、集団で共有されているものと思われる。

今日の音楽:Hammock"Kennotic"(CD)
聴いていると段々と高揚する、アンビエントーチルアウト。最近の大当たりの一つ。

今日の映画:パトリス・ルコント監督「ドゴラ」
無名のオーケストラ楽曲に乗って、カンボジアの田園や都市の風景が映し出されるという、台詞の無い映画。

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2007年4月13日 (金)

Stars of the lid/And Their Refinement of the Decline(CD)

B000niiux801_sclzzzzzzz_v43705326_ss500_これはまた凄いなあ。
何だか、やられた。前後不覚に陥った。
すばらしかった前作"The tired sound of stars of the lid"を、超えていると言ってもいいだろう。
音の輪郭はさらに曖昧になり、トラック間のつなぎ目はもはや僕らには判別しづらく、そこではひたすらゆらぎ続ける音にただ感情と漠然とした記憶だけがうっすらとのっかっているようなもので、聴いていると覚醒度が少しずつ落ちてしまう。少なくとも、仕事に行く前とか昼間に聴くような音楽ではないだろうなあ。
こうなると、もはや表現し難い音だけれども、いわゆる音楽と環境音の境界にあるような音のように感じた。
深夜一人でこれを聴いているのだけれど、何とも言えないほんわかとした音が部屋全体に染み渡る。
stars of the lidの場合、トラックの長さもまた、美徳。前作と同じ2枚組というボリュームもうれしい。
しかも、全編を通して聴いていても全く耳が疲れない。
好きな本を読んでいると、とてもはかどる。
この作品が、アブストラクト不毛の地アメリカで生まれたというのも驚きだ。
去年の収穫はmanualとstars of the lidだったけれど、どちらも僕らの期待を裏切らない。

Hesslow G.Conscious thought as simulation of behaviour and perception.Trends Cogn Sci. 2002 Jun 1;6(6):242-247.

最近、mirror neuronとかsocial cognition、self/other segregation関連の論文を色々と読みあさっていたのだけれど、biological motionの認知とか、action understanding、intention understanding、representation of other's mental stateといったsocial cognitionの中でもコアな認知プロセスは、結局のところ自身のmotor actionやimaginary representationの成立に関わるネットワークと大部分重複していることが分かった。つまり、脳は他者の認知のために特別な領域を別個に発達させているわけではなく、自身の内部状態や入出力に関わるネットワークを、そのまま利用している可能性が高い。また、ヒトのmirror-neuron systemは、手だけではなく、口、足など様々なモダリティ(domein-general)の効果器によってなされる行為で賦活され、しかもmirror-neuron systemのマッピングパタンは、運動野における古典的なホムンクルスと一致しているのである(Buccino,2001)。

つまり、mirror neuronは、それ自体はmirroringに特化したネットワークではなく、脳内の特定の領域(それ自体は様々な機能をもつ)がもつdomein-generalな特性(mirror property)であって、また他者による行為(目的志向性であれ、非目的志向性であれ)を観察したときには、このmirror propertyを基盤に、自身で同じ行為を産出する際と同じネットワークが動員されているという可能性があるのだ。

僕たちは、他者の行為だけでなく、他者のemotional stateといった心的状態を前理論的に直接理解することができるわけだが、このような共感empathyといった認知能力にもネットワークのもつmirro propertyが関与している可能性がある(Gallese, 2003)。

このような事実から導きだされる仮説として、最近他者認知に関する「シミュレーション仮説simulation hypothesis」というものがある。これは、僕たちは、他者から受け取る様々な(biologicalなsalienceが付加された)入力から、他者の心的状態を自前のシステムでsimulateする能力があるという仮説だ。このような脳のもつ傾向は、かなりの部分automaticに進行しているプロセスで、システムのある部分(皮質のmidline structure周辺)がもつmirror-propertyによって実現しているのだろう。Rizzolattiや、Gallese、Decetyらも、最近はよく「motor simulation」という言葉を使っているようだ。哲学者のMetzingerも、Galleseとの共著論文で、似たようなことを述べているらしい。

VarelaやThompsonが言っていた、「身体化embodiment」という考え方も、現実味を帯びてくる。つまり、自身の身体性入出力に強置く関わっているネットワーク上でsimulateされるという意味で、他者認知はembodiedされている。僕らは、他者の心的状態をまさに「身をもって」体験しているということだ。

ちなみに、僕らは、このような能力は「simulation」ではなく、自前のシステムで他者の心的状態に関する表象を再現するのだから、むしろ「emulation」と言った方が適切だと思っている。その筋で、現在色々と考えているところ。Consciousnessとも、つなげられるかもしれない。

また、simulation hypothesisからは、「じゃあ脳は自己と他者をどうやって区別しているんだ?」という疑問が当然浮かんでくるが、残念ながらこれはまだ分かっていないことが多い。機能画像研究や神経心理学的には、self-awarenessやself-recognitonには、right front-parietal networkとか、TPJ(Temporal parieto junction)あたりが重要であることが知られている。例えば、TPJがおかしくなると「out of body experience(幽体離脱)」みたいなことが起きることが知られている(最近、そういう症例に出会った)。おそらくは、self-awarenessは、神経活動がネットワーク上を時系列的に伝播していく過程で、TPJやright front-parietal network、insulaあたりを巻き込んでいくうちに次第に浮かび上がってくるプロパティみたいなものだろう。

autismとの関連は、既に色んな実験やレビューがあるけど、個人的に気になっているschizophreniaとの関連は、まだまだ明らかではない。

僕らが、他者と対話するということは、実際には僕らの脳の中にエミュレートされるヴァーチャルな他者像と対話していることなのかもしれない。

ここまで好き勝手に書いたので、もっとspeculativeに言ってみると、複数の個体が同様のsimulativeな傾向(mirror property)をもっているとして、個体同士の相互作用の連鎖が積み重なることによって、個々の脳のネットワークに共通の変化を引き起こして、これがshared representationやconceptなどの成立に関わっているという可能性もあるかもしれない。Rizzolattiらは、言語能力の発達にもmirror neuron systemが関与していると主張しているが、確かに魅力的な仮説ではあると思う。

で、前置きが長くなったが、この論文は、このsimulation of other's mental stateとconsciousness(いわばself simulation)とをつなぐような内容の論文。実際は、そんなに大したことは書いてないけど、既にこういうことを述べている人がいるのにちょっと驚いた。

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2007年4月 4日 (水)

social cognition

4月になった。僕が住んでいる官舎の目の前には大きな桜の木が数本植えられているので、部屋にいながら花見が出来てうれしい。
でも今日の雨で、大方散ってしまうだろう。

最近は、Buzsakiの本に並行して、social cognition関連の論文をちょこっとインテンシブに読みあさっているところ。
とりあえず、Ralph AdolphsFrith CD、Decety、Brunet-GouetBurnsArbibなどの総説を読んだ。
実験結果も一定しなかったり、解釈も様々だったりと、頭の中を整理するのが大変で、論文を読むたびに混乱していく気がする。うーん、ぱっとしない・・。中でもAdolphsのレビューは参考になった。
これからは、RizzolattiらのMirror neuron systemについて色々と調べる予定。

social cognition、あるいはsocial brainに関するレビューや研究論文を読んでいると、いくつかの前提と問題が浮かび上がってくる。整理のために、メモ。

定義、前提、仮説
1.social cognitionは、「他者の心的状態と行動出力を推測、理解することに関連した認知能力」と、ゆるやかに定義される。

2.social cogitionには、基盤となる脳の神経活動パタンが存在する。social brainとは、social cognitionに関与する脳領域であると定義される。

3.social cognitionは、自然選択の産物であり、霊長類、特にヒトに強く開花した認知能力である。

4.autistic spectrum disorderなど、social cognitionに明らかな障害を来す精神神経疾患が存在する。また、神経心理学におけるlesion studyでは、それぞれの損傷領域に対応したsocial cognitionの障害がみられる。schizophreniaでも、social cognition領域の障害がみられるが、それだけで全ての症候を説明することはできない。

問題
1.モダリティの問題:social cognitionは、単一のモダリティを構成するのか?そもそも、 social cognitionには、顔認知、emotional processing、perspective taking、familiality、empathy、learningなど、様々な認知処理過程が含まれており、もっと広くとれば、morality、言語能力、biological motionの認知やaction understandingなども含まれてくる。これらの全てが同一の次元の認知ドメインに属しているかというと、それははなはだ疑わしい。また、例えばTOMに代表されるように、social cognitionに関連した実験で用いられる課題も多岐に渡り、また賦活される領域も様々である。

2.stimuli自体のカテゴリー化に関する問題:1が脳内の処理過程に関する内的問題なら、こっちは外的問題に属する。環境から脳に与えられる無数の入力の中で、どのような条件を満たしたものがsocial stimuliと言えるのか?そもそも、脳に対する様々な入力の中から、social stimuliを取り出すことは妥当なのか?

3.underlying neural activityに関する問題:これも、1、2と重なるだろう。脳内に、social cognitionのprocessingに特化した領域は存在するのか?それとも、そのような固定した領域は存在せず、皮質および皮質下の脳構造がそれぞれ担うprocessingのcoordinationによって成立するものなのか。最近では、顔認知などをとってみても、コア領域のfusiform gyrusだけでなく、distributed processingという側面も強調されているようである。また、MEGやEEGなどで、social cognitionのprocessingのtemporal patternについても調べられているが、まだ初歩についたばかりである。

4.実験結果の解釈の問題:social cognitionに関連した実験では、主にf-MRIやPETなどの脳機能画像が用いられる。emotional processingにおけるamygdala、TOMにおけるmedial prefrontal cortex、顔認知におけるfusiform gyrus、motivational processingにおけるorbitofrontal cortexなど、self-representationにおけるright parietal regionなど、複数のコア領域が存在するというエビデンスは徐々に蓄積している。しかし、複数の実験が同様の課題を用いながらも、しばしば異なる脳領域が賦活されたり、矛盾する結果が得られている。また、lesion studyとactivation studyの結果に厳密な整合性がみられない点をどのように解釈するか?

5.methodの問題:1,2、4とも関連する問題。現在のところ、social cognitionを評価していると思われる様々な課題で賦活された領域郡をsocial brainであると仮定しているが、そもそもsocial cognitionのみを評価する課題を作ることは可能だろうか?

6.social cognitionは、その定義、性質上、self-otherのsegregationを前提とする。したがって、必然的に「自己self」に関連する問題もつきまとう。これまた、仮説的前提や、実験結果の解釈上の議論が絶えない問題の一つ。この問題に関しては、Mirror neuron systemが重要なトピックの一つだが、間接的なエビデンスが多く、今後の研究の進展が必要か。


現時点では、social cognitionに特化した脳領域を取り出すという戦略はmisleadingである可能性が高いと思う。確かに、高度な社会生活を送るヒトの適応戦略上、social stimuliはヒトにとって最重要かつ見落としてはならないものと考えられ、これらsocial stimuliのprocessingに強く関与するネットワークが存在する可能性は高いだろう。しかし、おそらくsocial cognitionは、系統発生の過程で良く保存された複数の脳領域の共調的な活動の上に成立するオーダーの高いmulti-modalな認知能力とみなした方がよいだろう。そういう意味では、f-MRIによるfunctional connectivityや、EEGやMEGによるsynchronization,coherenceなどを評価した実験があってもよいのだが、まだまだ少ないようだ。そもそも、social stimuliであれ、non-social stimuliであれ、環境から脳にはこれらが混在した形で入力され、形式的に両者を分つものは自明ではない。与えられたstimuliがsocialかnon-socialかどうかを規定するのは、学習や経験によって蓄積された知覚パタンのカテゴリーやこれらによって重み付けされたsaliencyだろう。た、実験結果が一定しない機能画像研究の実験結果は、むしろsocialとnon-social stimuliのprocessingが同一のネットワークを使用している可能性の方を示唆していると思われる。

今日の音楽:Yo La Tengo"I can hear the heart beat as one"(CD)
最近の映画:「フリークス」(DVD)

昨年のこの時期には、お台場で毎年やってる渚音楽祭に参加したのだけど、今年は病棟が忙しいし、連れもいないので、まあ無理だろうなあ。

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